東京地方裁判所 昭和53年(ワ)4868号 判決 1984年9月06日
原告
杉原直
外六名
右原告ら訴訟代理人
大野正男
山川洋一郎
被告
日本道路公団
右代表者総裁
前田光嘉
右指定代理人
遠藤きみ
外一名
主文
一 原告らの請求をいずれも棄却する。
二 訴訟費用は原告らの負担とする。
事実
第一 当事者の求めた裁判
一 請求の趣旨
1 被告は、原告杉原直に対し金一五六七万七一一三円、同杉原忠に対し金一三三二万五三〇〇円、同吉間佐内に対し金九三〇万四六一六円、同横山平七に対し金一一七〇万三七六六円、同石黒定幸に対し金四九五万円、同社団法人須走彰徳山林会に対し金三三九五万三七〇四円、同吉間とよに対し金九〇五万二一二〇円及びこれらに対する昭和五三年六月七日から支払済みまで年五分の割合による金員を、それぞれ支払え。
2 訴訟費用は被告の負担とする。
3 仮執行宣言
二 請求の趣旨に対する答弁
主文同旨及び担保を条件とする仮執行免脱宣言
第二 当事者の主張《以下、省略》
理由
一請求の原因1の事実のうち、原告山林会が肩書地所在の社団法人、その余の原告らがいずれも静岡県賀茂都東伊豆町白田の住民であること及び被告が、原告らが所有あるいは居住していた家屋の山側を通る本件道路の所有、管理者であり、本件山崩れを起こした土地のうち右本件道路山側の土地を所有していたこと、同2の事実のうち、昭和五一年七月一一日から同月一二日にかけて静岡県伊豆半島南部に相当量の降雨があり、そのため静岡県賀茂郡東伊豆白田クルチ川付近において、被告の所有管理する本件道路を含む斜面が、同月一一日午後一時頃から午後五時頃まで、同月一二日午前一時三〇分頃及び同日午前七時頃の三回にわたり崩壊し、本件道路下方にあつた民家を押し流したことはいずれも当事者間に争いがない。
そして、<証拠>によれば、原告らは本件山崩れによりその所有家屋あるいは一切の家財道具類を流失するなどの被害を受けたこと、弁論の全趣旨によれば、本件山崩れが発生した箇所付近で被告が所有していた土地は、別紙図面(一)の用地境界内の土地であり、本件崩壊斜面全部を所有していたものではないことをそれぞれ認めることができる。
二本件切取法面が、下部(道路面からの高さ1.64メートルないし2.79メートルまで)は勾配一対0.3(七三度一八分)のコンクリートブロック擁壁、その上部(道路面からの高さ6.71メートルないし16.55メートルまで)は勾配1対0.5(六三度二六分)のモルタル吹付けとなつていたことは当事者間に争いがなく、<証拠>によれば、コンクリートブロック擁壁は、切取法面に石を積み重ねた後、その外側にコンクリート製ブロックを交互に組み合わせて積み上げ、さらにこれをコンクリートで固定したものであること、モルタル吹付けは、切取法面に金網を張つて長さ三〇センチメートルの鋼鉄製ピンで固定し、その表面に厚さ約五センチメートルのモルタルを吹き付けたものであることをそれぞれ認めることができる。
三原告らは、本件山崩れは本件切取法面の崩壊から始まつたものであり、本件切取法面の切取角度が急角度であること及び排水設備の不備が原因となつて本件山崩れが発生したと主張し、一方、被告は、本件山崩れは、本件切取法面の上方に広がつていた崖錐推積物の表層滑落(第一崩壊)、本件崩壊斜面の深部に存在していた潜在的弱面(断層性弱線)をすべり面とする崩壊(第二崩壊)、右第一及び第二崩壊によつて不安定化した斜面の上方部分の崩壊(第三崩壊)から成るものであつて、本件切取法面の構造とは別個の原因により発生したものであり、本件山崩れの発生と本件切取法面の構造との間には因果関係がないと主張している。そこで、以下、本件山崩れの態様及びその原因について検討することとする。
1 検証の結果によれば、本件山崩れが発生した箇所の状況は別紙図面(二)に表示したとおりであると認められる。
2 本件山崩れを目撃した者の証言をみると、以下のとおりである。
(一) 証人盆子原正夫(以下「盆子原証人」という。)は、別紙図面(二)の地点で本件山崩れ(第一崩壊)を証人林稔(以下「林証人」という。)とともに下田側から目撃している。盆子原証人は、林証人とともに本件道路を下田方面から伊東方面へ歩いていたところ、中島宅(別紙図面(二)の3の建物)のあたりを通り過ぎた頃、本件切取法面のモルタル吹付けの目の高さよりも下の方にひびが入つているのが見え、その中からパチパチという音が聞こえた。さらに伊東方面に歩いて行き、右地点にさしかかつた頃、パチパチという音が大きくなり、モルタル吹付部分の一面にひびが入り、危ないと思つた時、モルタル吹付部分の下の方が一気に飛び出してきてコンクリートブロック擁壁も一気に持つて行かれた。モルタル吹付部分の割れ目から水が飛び出して、コンクリートブロック擁壁も一緒に全部が滑るように崩れた。崩れた後にはモルタル吹付けは残つておらず、道路もほとんど切り取られたような状態になつていた。崩れる直前には、モルタル吹付部分の割れ目から水が滲み出していた。崩壊は二回にわたつて起き、まず下の方が崩れ、ほとんど間を置かずに二度目の崩壊が起きた。崩れなかつた下田寄りのモルタル吹付部分には、ガラスのひび割れのようにひびが入つていた。
(二) 林証人は、右地点の付近でモルタル吹付部分からパリパリという音を聞いたが、それまではモルタル吹付部分のひび割れもその音も気づかなかつた。さらに少し伊東方面に進んだ時、モルタル吹付部分の最下部、コンクリートブロック擁壁の上方あたりが抜け出すように海側に飛び出してきた。道路を路肩の方(海側)の方に逃げ、海側を見ると海に島ができていた。道路上には崩壊土砂が両側に盛り上がつていた。崩壊はほとんど一瞬の間に発生し、数回にわたつたとしても数秒の間に起きた。モルタル吹付部分は、上方、下方ともに全面が前に飛び出るような形でそのまま海の方へと流れ出した。コンクリートブロック擁壁はモルタル吹付部分と同時に崩れ落ちた。道路部分も全体がモルタル吹付部分やコンクリートブロック擁壁と一緒に崩れた。道路部分は、路肩の方(海側)が広く、山側が狭いような形で下方の伊豆急行の線路の方に崩れ落ちた。崩壊の規模は証人安黒博之が崩壊後に撮影した写真(乙第二六号証の一)よりも小さかつた。
(三) 証人山本庄一(以下「山本証人」という。)は、別紙図面(二)の伊豆急行線路上の地点から本件山崩れ(第一崩壊)を目撃している。伊豆急行の線路は本件道路の下方にあるため、右地点からは本件切取法面の上方しか見ることができず、モルタル吹付部分の下部及びコンクリートブロック擁壁は見ることができない。山本証人が山の方を見ていると、モルタル吹付部分とその上方の山の間の付近からこぶし大から頭くらいの大きさの石が落ちてきた。その後も石がときどき落ちてきた。しぼらくするとモルタル吹付部分のあたりからパリパリという音がしてモルタル吹付部分が幅一〇メートルくらいふくれてきて前に出てきた。少し遅れてモルタル吹付部分の上方の山がそのまま動き出して滑るようにして落ちてきた。伊東方向に線路上を一〇メートルないし一五メートルほど走つて逃げ、音がしたので振り返つて後ろを見ると、伊豆急行の電柱が燃え始めていた。崩れた場所を見ると、南風荘(別紙図面(二)の6の建物)は屋根のかけらが伊豆急行の線路上に乗つており、家の本体は建つてはいるが下田寄りの方が半分くらい土砂に埋まつていた。崩壊跡は全体に赤く、一直線になつて、崩壊土砂が海まで達しており、波打際から二、三〇メートル先まで出ていた。モルタル吹付部分が残つていたとは思わない。本件山崩れがすべて終わつた後の写真である甲第一号証と比べると、このうち伊東側の三分の一程度はこの時に崩壊したように思う。本件山崩れがすべて終わつた時には自宅(別紙図面(二)の7の建物)は下田側の半分くらいが土砂に埋まつたが、これは第一崩壊によつて埋まつたもので、第二、第三崩壊では影響は受けなかつた。
(四) 原告杉原直は、第一崩壊発生のすぐ後、自宅(別紙図面(二)の2の建物)から、崩壊土砂が三〇メートル程度海の方に出ているのを見た。自宅から崩壊箇所の方に行くと、崩壊土砂のためそれより伊東寄りにある南風荘は見えなかつた。その隣にある吉間アパート(別紙図面(二)の5の建物)は見えたが、土砂のため、伊東寄りの方が傾いて道路の方に押し出されており、そこに住んでいた原告横山平七及び同石黒定幸の家族は二階から外に逃げ出している。中島宅と吉間アパートとの間付近から崩壊跡を見ると、五〇メートル程度すつぽり抜けて溝のようになつていた。その位置からはモルタル吹付部分の上方は見えるはずであるが、見える範囲内はずつと溝のようになつており、モルタル吹付けが残つているようには見えなかつた。崩れなかつたモルタル吹付部分との境はぎざぎざになつていた。その日の午後四時頃、本件道路に上がつてみると、第一崩壊では崩れなかつた本件切取法面のモルタル吹付けには縦にひび割れが入つていた。
(五) 証人鈴木仙太郎(以下「鈴木証人」という。)は、自動車で本件道路を下田方面から伊東方面に向かつて進行中、本件山崩れの発生した箇所を通りかかつた際、本件切取法面のモルタル吹付部分の上部にクラック(ひび割れ)が入つているのを見た。しかし、モルタル吹付けははがれておらず、落石もなかつた。危険を感じて自動車から逃げ出したが、付近にいた消防団員の指示で自動車に戻り、本件山崩れの発生した箇所を通り過ぎた直後、後方(下田側)で山崩れが起きた。引き返して見ると、土砂が道路上に八〇センチメートルないし一メートル程度の高さで堆積しており、その後に撮影された写真である乙第二六号証の一と比べると堆積土砂の規模はやや小さかつた。崩落土砂は海には達していなかつた。崩壊した部分は土砂が積もつているため、モルタル吹付けやコンクリートブロック擁壁がどうなつているかは分らなかつたが、堆積土砂との境目付近のモルタル吹付けは残つていた。海側のフェンスは曲がつていたが残つてはいたので、本件道路自体は崩壊していないと思われた。二、三時間ほどたつて現場に再び戻つてみると、土砂の量が増しており、海の方まで達していた。しかし、海辺のあたりで盛り上がつているということはなかつた。その後海岸まで降りて、波打際の崩壊土砂の上を腰までつかつて下田側に歩いて行つた。崩壊土砂の堆積幅はおよそ三、四〇メートルであつた。海の方から崩壊箇所を見ると、上方は削られていたが、本件道路上には土砂が堆積して盛り上がつていた。南風荘は、傾いていた。鈴木証人は、崩壊箇所を渡り終わつて再び道路上に上がり稲取の事務所に帰つた。
(六) 証人関裕(以下「関証人」という。)は、本件山崩れ(第一崩壊)の発生を聞いて現場に行き、その状況を観察している。その時刻は必ずしも明らかではない。本件道路上には高さ五メートル程度の土砂が堆積し、その土砂は伊豆急行の線路上にまで達していた。崩壊土砂の上に登つてみると、崩壊はかなり上の方から起きており、土砂の幅は二、三〇メートルであり、土砂は水を含んでいて足がくい込むような状態であつた。崩落土砂に覆われた部分のモルタル吹付けは分らないが、覆われていない下田側のモルタル吹付部分は崩れずに残つており、水抜き穴からは水が多く出ていた。崩壊土砂に登つている間も土砂が少しずつ崩れていた。崩壊土砂上で写真を撮影した(この写真は提出されていない。)後に、海岸に出ると、流出した土砂は伊豆急行の線路から一〇メートルくらい離れた地点で約1.5メートルないし1.6メートル程度の高さになつていた。土砂は海岸にまでは達していたが、海水にまでは達せず、人が歩くには充分な間があつた。崩壊によつて民家がどうなつていたかは分らない。関証人は、再び崩壊土砂の上に登り、そこで鈴木証人と会い、二人で下田に帰つた。
(七) 証人安黒博之(以下「安黒証人」という。)は、本件山崩れ(第一崩壊)の状況を写真撮影している。乙第二六号証の一ないし四は、昭和五一年七月一一日午後二時三〇分ないし午後三時頃伊東側から本件山崩れの状況を撮影したものである。崩壊場所の切取法面は土砂が覆つており不明であるが、崩壊しなかつたところのモルタル吹付け及びコンクリートブロック擁壁に異常はなかつた。道路自体は崩壊しておらず、その上に土砂が堆積しただけであるように見えた。崩壊土砂は海岸線から二〇メートル程度海側に出ていた。安黒証人はその崩壊土砂の波打際を四つんばいになつて渡り、下田側に出た。その間、崩壊箇所の上方から断続的に水がヘドロのような感じで流れ出していた。崩壊の跡は赤土がむき出しになつていた。二、三〇分程度かかつて下田側に出たあと、午後三時三〇分ないし午後四時頃に再び本件山崩れの状況を写真撮影した。その写真が乙第二六号証の五ないし八である。吉間アパートは倒木などがかぶさつていたが、土砂に押し流されたようには見えなかつた。安黒証人は一度事務所に戻り、一時間程度たつて再び本件山崩れ現場に戻り、その状況を写真撮影した。その写真が乙第二六号証の九ないし一三である。その時には崩壊土砂量は前よりも増えており、海側に出た土砂も相当増えていた。南風荘は土砂に埋まり、吉間アパートは土砂が大きく覆つていた。
以上のとおり、本件山崩れを目撃した者のうち第一崩壊の発生時に、これをごく近くで目撃した盆子原、林両証人は、いずれも、本件山崩れは本件切取法面のモルタル吹付部分の中部又は下部がまず崩壊したとする原告らの主張に沿う証言をしており、山本証人及び原告杉原直も一部これに沿う証言及び供述をしている。
3 <証拠>によれば以下の事実を認めることができる。
(一) 被告は、本件山崩れが発生した箇所の復旧工事を施行する必要から、応用地質に本件山崩れの原因の調査を委託し、応用地質は、昭和五一年八月一〇日から同年一〇月二三日まで及び同月一日から同年一二月四日までの二回にわたつてその調査を行つた。そのうち、第一回の調査では、崩壊法面及び崩壊地付近の地質踏査、ボーリング調査、弾性波探査による崩壊地の地質調査が行われ、第二回の調査では、これに加えて、本件崩壊斜面に存在していた物が崩壊によつてどのように移動し、海上に堆積したかを調べるグリッド調査、各地層の透水性を調べる透水試験、本件崩壊斜面上方の地盤の浸透試験等が行われた。
(二) 応用地質の行つた地質調査の結果によれば、本件山崩れ発生後の本件崩壊斜面及びその付近の地質の状況は別紙図面(三)の一ないし四(図面(三)の一は平面図であり、同図面二ないし四は右平面図のAないしCの各測線の断面図である。)に表示したとおりであり、各地層の分布状況及び性質は次のとおりである。
(1) 凝灰角礫岩
崩壊斜面の下部から中部及び下田側の沢沿いの標高六〇メートル付近に分布している。岩質は、安山岩の角礫ないし豆角礫(直径五センチメートルないし二〇センチメートル)を含み、基質は同質の火山灰からなる。新鮮部は灰色を示してかなり硬いが、温泉変質、風化により青灰色、黄褐色を示し、かなり軟質となつている。第四紀の天城火山噴出物と推定される。
(2) 泥流堆積物
白田川沿いにかなり広く分布しているが、本件崩壊斜面の付近ではほぼ分布の末端にあたるため伊東側から下田側にかけて消滅するように分布している。黄灰色ないし黄褐色を示し、安山岩の亜角礫(直径二〇センチメートルないし三〇センチメートル)を含む。基質は火山灰質のよくしまつた土砂からなり、かなり粘土化した部分もあり、特に温泉変質を受けた部分は粘土化が著しく、含水により著しく軟質になつている。下位の凝灰角礫岩とは不整合に接している。また、本件崩壊斜面では本堆積物の上位の堆積物との境界から連続的に湧水がみられる。
(3) 古期崖錐堆積物
本件崩壊斜面の伊東側及び下田側に分布しており、泥流堆積物を覆つて部分的に分布している。基質をほとんど持たず、安由岩質の巨礫(直径五〇センチメートルないし二〇〇センチメートル)を主としており、非常に空隙の多い堆積物である。
(4) 紫灰色凝灰角礫岩
全体に紫灰色を示すことを特徴としており、分布はレンズ状に分布している。直径五センチメートルないし一〇センチメートルの安山岩の礫を含み、基質は良くしまつており、本件崩壊斜面では九〇度近くに切り立つており割れ目がみられるが軟質である。
(5) 礫まじりローム
ロームの二次堆積物と崩壊土砂、礫が混じり合つたもので、本件崩壊斜面付近に広く分布している。基質部はかなり軟質で一般のロームと大差はないが、安山岩、石英安山岩の礫(直径五〇センチメートルないし二〇〇センチメートル)をやや多く含み、全体にかなり空隙を有する。
(6) ローム
いわゆる赤土とよばれる火山灰で、崩壊斜面の上部から平坦部にかけて分布し、最大層厚は二〇メートル前後で、N値は二ないし三程度である。また、ロームの最上部には黄灰色の軽石層が分布している。
(7) 崖錐堆積物
緩斜面、沢底に分布しており、安山岩、石英安山岩の礫及び土砂からなる。黒褐色を示し、全体にルーズである。
(三) さらに、本件崩壊斜面を観察すると、地形的には二つに区分され、下田側から伊東側にかけての断層面を主とした北二〇度ないし三〇度西、四〇度ないし六〇度北東の走向、傾斜を持つた鏡肌状のA面と伊東側の崖錐を主とした凹凸面と斜面下部のテラス部からなる傾斜五〇度ないし七〇度の不規則な面を持つB面からなつている。本件崩壊斜面の地質は、伊東側から下田側にかけて最下層の凝灰角礫岩が不規則に層厚を増しており、標高六〇メートル付近にまで達している。その上部に伊東側から下田側に減厚しながらゆるく傾斜して泥流堆積物が分布している。その上部には、ルーズな古期崖錐堆積物が不連続に分布している。また、斜面中央部では泥流堆積物を直接紫灰色凝灰角礫岩が覆い、レンズ状に分布している。一般に、紫灰色凝灰角礫岩、礫まじりローム及びロームは六〇度ないし七〇度の傾斜を有し、切り立つている。礫まじりローム及びロームも中央部で厚い。
A面を作る断層は、北二六度ないし三二度西、四五度ないし六〇度北東の走向、傾斜を有しており(原本の存在及び成立に争いのない甲第四号証によれば、東海大学海洋学部の大草重康らは、北五度東、五〇度東の走向、傾斜を持つ断層が存在する可能性があるとしている。)、断層の性状は一般に二〇センチメートルないし三〇センチメートル幅で粘土化している。A面の断層面をみると、ほとんどすべて黄褐色に表面が二センチメートルないし一〇センチメートルの厚さで変色しており、下田側ではその下側は青灰色に変色している。これは、断層に沿つて熱水変質作用を受けて青灰色に変色した部分がその後断層沿いの流水により酸化が進み、黄褐色を示したものと考えられる。B面はこの断層の上盤を構成しており、断層は伊東側ではB面の下側に入り込んでいる。
(四) グリッド調査の結果によると、本件山崩れ発生前の植生、構造物、土砂等は、下田側ではその位置関係を変えないで一枚のプレートを押したようにそのまま堆積しているが、伊東側では全くばらばらになつて堆積している。このことは、本件山崩れが、下田側では一回で急速に崩壊したが、伊東側では数回に分かれて崩壊したことを示している。
(五) 浸透試験の結果によると、本件崩壊斜面上方のロームが分布している緩傾斜部では、一時間あたり四七ミリメートルまでの降雨であればその全量が地下に浸透し、それを超える降雨があつたときに、その一部が地表面を流れることが推定される。
(六) 透水試験の結果によると、各地層の浸水係数は、ロームでは29×10-3センチメートル毎秒、礫まじりロームでは26×10-5センチメートル毎秒、凝灰角礫岩、泥流堆積物では2〜3×10-5センチメートル毎秒の数値を示しており、崖錐堆積物は、以上の各層よりもはるかに水を透しやすく、10-1〜10-2センチメートル毎秒程度とみられる。
(七) 右のような調査結果と本件山崩れを現場で目撃した消防団員、伊豆急行関係者等からの聞き込みの結果を総合して、応用地質は、第一崩壊について、次のとおり推定した。
(1) 第一崩壊は、本件切取法面の上方に広がつていた透水係数の大きい崖錐堆積物が、透水係数の小さい泥流堆積物の上にあつたため、透水性の差により多量の降雨により飽和し、両層の境界面を滑落面として崩壊した表層滑落である。
(2) 崩壊前の本件崩壊斜面の地質分布は、別紙図面(三)の五のようなものであつた。本件切取法面には崖錐堆積層を切取つた部分はなく、切取部分は、泥流堆積層と凝灰角礫岩であつた。しかし滑落した崖錐堆積層は、切取法面の上端の法肩まで分布していた。
(3) したがつて第一崩壊においては、本件切取法面は崩壊していない。なお、モルタル吹付けにクラックが生じたのは、法肩まで分布していた崖錐堆積物が降雨の滲透により飽和し、滑り始めるまでには剪断の前駆現象として移動しようとする土塊の剪断面に剪断抵抗を生じ、剪断ゾーンにひずみを生じたのであるが、モルタルは基盤の泥流堆積物と比べてひずみを吸収しにくいためクラックを生じたのである。
以上のとおり、応用地質の調査に基づく推定は、本件山崩れは、本件切取法面の上方の自然斜面の崩壊から始まつたとする被告の主張に沿うものである。
4 そこで、前記盆子原、林両証人の証言と応用地質の推定のいずれが信用できるかについて考える。
(一) まず盆子原、林両証人の証言について検討する。
前記三2記載の各証人の証言及び原告杉原直の供述(第一回)、安黒証人の右証言により第一崩壊の途中ないし終了後に本件山崩れの箇所を撮影した写真であると認められる乙第二六号証の一ないし一三(本件山崩れの箇所を撮影した写真であることは当事者間に争いがない。)によれば、第一崩壊が本件崩壊斜面の伊東側で発生し、これは、おおむね、本件道路の道路測点五四三ないし五四六までの間に対応し、盆子原、林両証人が本件山崩れを目撃した地点は道路測点五四五の地点付近に対応していることが認められる。
ところで、前掲乙第一四号証に添付された本件崩壊斜面の平面図及び証人芥川真知の証言により真正に成立したと認められる乙第四三号証によれば、第二及び第三崩壊が発生し、本件山崩れが終了した後でも、本件道路面は少なくとも伊東側から道路測点五四四よりもやや下田寄りの地点まで残つていたこと、コンクリートブロック擁壁は、右平面図作成時には既に伊東側から道路測点五四六付近までしか残つていないことがそれぞれ認められる。また、昭和五一年七月に本件山崩れ発生後の本件崩壊斜面の状況を撮影した写真であることに争いのない乙第二七号証の一、二によれば、右コンクリートブロック擁壁は、道路測点五四四又は五四五よりもやや下田寄りの地点まで残つていたことが認められる。一方、前掲乙第二六号証の一二、一三(安黒証人の前記証言によれば、右各写真は同月一一日午後四時ないし午後五時頃に撮影されたものであることが認められる。)によれば、第一崩壊の終了後、崩壊土砂は道路測点五四三の付近まで来ているが、その付近では道路面及びコンクリートブロック擁壁は残つていることが認められる。さらに、右各写真よりも一時間ほど前に撮影された写真である前掲乙第二六号証の五、六及び右各写真の撮影位置を考えると、その時点では、崩壊土砂は道路測点五四三からさらに伊東側に寄つた地点までしか堆積していなかつたものと認められ、従つて、その付近まではコンクリートブロック擁壁及び道路面は残つていたと考えられる。
以上の事実から考えると、盆子原、林両証人の前記各証言のうち、コンクリートブロック擁壁、さらには道路面も第一崩壊の最初の地点で崩壊したとの部分はかなり疑問であり、特に前記乙第二六号証の一、二、八、一二によればむしろ、道路面及びコンクリートブロック擁壁は、第一崩壊の開始直後の時点では崩壊せずに残つていたと考える余地が多分にある。
なお、前掲乙第一四号証添付の断面図及び乙第一八号証の五九の断面図では、コンクリートブロック擁壁、道路面ともに残されていないが、これは、前掲乙第二七号証の一、二からも明らかなように、本件山崩れ発生後復旧工事に際し除かれたためであると考えられ、右各断面図から、第一崩壊によつてコンクリートブロック擁壁及び道路面が崩壊したとすることはできない。
前掲乙第二七号証の一、二によれば、第一崩壊のあつた箇所のモルタル吹付部分は残存していないことが認められるが、右各写真は、第二及び第三崩壊が発生し、さらに、本件道路の復旧工事のため崩壊土砂及び不安定斜面の除去が行われた後の写真であることが明らかである(右乙第二七号証の一、二に撮影されているコンクリートブロック擁壁もその後撤去されたことは前記1記載のとおりである。)から、これをもつてモルタル吹付部分が第一崩壊で崩壊したとすることはできない。
さらに、盆子原、林両証人は、第一崩壊の発生をごく近くから目撃したものであり、その印象は相当強烈とならざるを得ないこと、しかも、崩壊を観察することのできたのは、逃げ出すまでのほんの一瞬であり、目撃の対象もごく部分的な光景に過ぎないことからすると、このような場合には冷静にこれを観察し、正確に記憶しておくことは必ずしも期待できず、誇張して記憶されることも稀ではないことも考えると、盆子原、林両証人の前記各証言の正確性については疑問が残る。
(二) 次に応用地質の推定について検討する。
応用地質が本件山崩れ発生前の本件崩壊斜面の地質を別紙(三)の五のとおり推定していることは前記認定のとおりであり、これによれば、本件切取法面は泥流堆積物及び凝灰角礫岩からなり、崖錐堆積物の層は切り取つていないことになる。前記乙第四五号証及び証人大矢暁の証言によれば、崖錐堆積物は固結度が低いため、本件切取法面における一対0.5(六三度二六分)というような急角度の切取角度では安定な状態でいることができないものであるところ、本件切取法面は昭和四二年四月頃の本件道路の供用開始以降一〇年近くも崩壊しなかつたことから、応用地質は右のように地質を推定したものであると認められ、右推定は合理性があると考えられる。少なくとも、本件切取法面のモルタル吹付部分の中部ないし下部まで崖錐堆積物が覆つていたとは考え難い。
また、山本証人及び原告杉原直は、本件道路の拡幅工事以前には本件崩壊斜面の中腹から多量の湧水があつた旨それぞれ供述しており、これは、前記3(二)及び(六)記載の事実からすると、泥流堆積物とその上部にある崖錐堆積物等との間から出ていたとみられるが、証人畔見利夫の証言及びこれにより真正に成立したと認められる乙第二号証の二によれば、被告は、本件道路の拡幅に際し、本件崩壊斜面の下田寄りの沢となつている自然斜面から水が流れ出しているのを認めたため、その排水のため、管渠等の施設を設けており、湧水地点そのものを切り取つていないことが認められるので、湧水の点から本件切取法面に崖錐堆積物があつたとすることはできない。
また、第一崩壊の規模ないし範囲については、前記三2記載の各証人の証言及び原告杉原直の供述との間には若干の相違があるが、前掲乙第二六号証の一ないし一三及び第一崩壊によつてはコンクリートブロック擁壁や道路面は崩壊しなかつたと考えられることなどからすると、第一崩壊が、これを崖錐堆積物の表層滑落であるとしたのでは説明がつかないような大規模なものであつたとまでは認め難い。前掲乙第二六号証の四、証人山本庄一の証言、原告杉原直本人尋問(第一回)の結果によれば、右写真の撮影時(安黒証人の証言によれば午後二時半ないし午後三時頃である。)には、伊豆急行の線路上に南風荘の屋根と思われる物体が乗つているようにも見えることが認められ、原告杉原直本人尋問(第一回)の結果により昭和五一年七月一二日本件山崩れの終了直後にその崩壊場所を撮影した写真であると認められる甲第七号証及び証人山本庄一の証言、原告杉原直本人尋問(第一回)の結果によれば、右写真にも伊豆急行の線路上に南風荘の屋根が写されていることが認められる。しかし、右各写真を対比すると、南風荘の屋根の破壊状況は相当異なつており、また、撮影方向が異なるため必ずしも明確ではないが、土砂の堆積量も甲第七号証の写真の方が多いようにみられること及び第一崩壊についてこれまで述べてきたような諸点を考えると、右各写真から、第一崩壊がこれを表層崩壊であるとしたのでは説明がつかないような大規模なものであつたとすることはできない。
以上のとおり、応用地質の推定は、盆子原、林両証人の証言を除けば他の証拠から認められる事実と矛盾することなく、前記三3記載の各証拠によれば、相当に綿密かつ周到な調査に基づくものと認められる。
なお、成立に争いのない甲第一四号証及び第二二号証、証人川崎浩司の証言によれば、同証人は、第一崩壊の原因は、集中豪雨により地形的な理由からこの地域に表流水が集中し、主として上方の自然斜面表層部を乱し、主として泥流堆積物中に存在するクリープ性クラックもしくは断層性破砕帯に浸透水が流れ込み、もともとそこにあつた地下水と合流し、充分な排水がなされないために斜面最下部のモンモリロナイト(粘土)化した軟弱土を膨張させ、受動抵抗の低下した斜面の下部や中部を破壊し、削り取つたことによるものであるとしている。
そして、原本の存在及び成立に争いのない甲第五号証によれば、静岡大学の木宮一邦(以下「木宮」という。)は、本件山崩れの発生した箇所の地質を調査した結果、この付近に分布している泥流堆積物は変質作用によりモンモリロナイト化しており、これは水を含むと膨張する性質があり、地すべりを起こしやすいこと、付近にはクリープ性のクラックがみられ、本件崩壊斜面も風化の影響を強く受けていた部分とそれほど受けていない部分との間などにクリープ性クラックがあつた可能性が高いこと、泥流堆積物の上部には未固結堆積物(崖錐堆積物、ロームなど)がのり、両者の間には著しい透水性の差がみられ、その不整合面からは多量の湧水がみられたことをそれぞれ認め、右調査の結果から本件山崩れの原因を次のように推定していることが認められる。すなわち、集中豪雨により多量の雨水が未固結堆積物に滲み込み、そのため平常の水道(みずみち)だけではその水をはききれず、地下水圧が徐々に上昇した。一部の水は泥流堆積物中のクリープ性クラック中にも流れ込み、モンモリロナイトを膨張させた。地下水庄がさらに上昇するとついにこらえきれず崩壊を起こすことにより新しい湧水地点を作る。このようにして泥流堆積物と未固結堆積物との不整合面付近の崩壊が起こると、下部の膨張したモンモリロナイトを含みクラックを内在した泥流堆積物は力の均衡を失い、ついには大規模な地すべりを起こしたと推定される。
右木宮の行つた地質調査の結果及び前記認定の応用地質の行つた地質調査の結果からすると、川崎証人の推定したような崩壊原因も一つの可能性として考えられないものではないが、それ以外の原因があり得ないというものではなく、応用地質の推定と比べていずれの崩壊原因が可能性として高いかを考えると、前記指摘したような崖錐堆積物と泥流堆積物の透水性の差などからみて、やはり、崖錐堆積物の表層滑落である可能性が高いと考えられる。
また、前掲甲第一三号証及び証人生越忠の証言によれば、同証人は、第一崩壊は、泥流堆積物からなる本件切取法面の崩壊から始まり、これがその上方の自然斜面の表層部を構成する崖錐堆積物の崩壊へと進んだものであると推定していることが認められるが、右推定は盆子原、林両証人の前記証言に疑問の余地がないことを前提とするものであり、川崎証人の推定と同様に可能な推定の一つにとどまるものと考えられる。
右のとおりであるから、盆子原、林両証人の証言のうち本件山崩れが、本件切取法面の崩壊から始まつたという趣旨の部分は、にわかに採用することができない。
5 山本証人及び原告杉原直が、一部原告らの主張に沿う供述をしていることは前記三2記載のとおりであるが、いまだ明確なものとはいえず、右各供述によつて原告らの主張を認めることはできない。
6 以上のとおりであつて、第一崩壊については、これが本件切取法面のモルタル吹付部分の中部又は下部の崩壊から始まつたとする原告らの主張を認めることはできず、被告の主張するような本件切取法面上方の自然斜面の表層崩壊であつたとの可能性がより高いと考えられる。なお、前掲甲第一四号証によれば、証人川崎浩司は、第一崩壊が本件切取法面の崩壊から始まつたものではないとしても、第一崩壊により本件切取法面のモルタル吹付部分が崩壊したことは確実であるとしているが、第一崩壊の崩壊土砂のため、本件切取法面が削り取られる以上に、本件切取法面にまで崩壊が及んだとする根拠はない。
したがつて、本件山崩れの第一崩壊については、本件切取法面の構造がその原因となつたとは認められない。
7 昭和五一年七月一二日午前一時三〇分頃に発生した第二崩壊の態様及びその原因については、前掲乙第一八号証の三四及び証人大矢暁の証言によれば、応用地質は、前記のような調査結果及び被告の聞き込み調査の結果等から以下のとおり推定していることが認められる。すなわち、本件崩壊斜面の深部には、斜面にほぼ平行して走つていた断層性弱線が存在していたところ、集中豪雨による多量の雨水が時間をかけてこの断層性弱線にまで浸透し、地下水圧を上昇させ、断層性弱線の崩壊に対する抵抗力を減少させたため、本件崩壊斜面はついに安定を失い、この断層性弱線をすべり面として、崩壊土量約一二万立方メートルと推定される大規模な地すべり性崩壊を引き起こした。この崩壊は、その中央部では、伊豆急行の線路、護岸、本件道路等をも破壊し、崩壊土砂は海上に海岸線から七〇メートルにも及ぶ島をも作つた。この崩壊は第一崩壊と異なり、順次数回にわたつて発生したものではなく一気に発生したものとみられる。
そして、成立に争いのない甲第四号証、前掲甲第五号証、第一三、一四号証及び乙第四三号証、証人生越忠、同川崎浩司及び同芥川真知の各証言によれば、すべり面となつた潜在的弱面が応用地質が推定したような断層性弱線であつたのか、クリープ性クラックであつたのかという点では相違がみられるものの、本件山崩れの原因を調査した多くの専門家が、右応用地質の見解と同様の見解を述べていることが認められる。
以上の事実からすると、第二崩壊は、本件崩壊斜面の深部にあつた断層性弱線又はクリープ性クラックのような潜在的弱面に多量の雨水が浸透したため、右潜在的弱面をすべり面として発生した地すべり性崩壊であると認められ、右潜在的弱面は、前掲甲第四号証によれば本件山崩れの最大崩壊深度は約一五メートルと認められるように、かなり深部にあること、さらに、前掲乙第四三号証によれば、右潜在的弱面に対する浸透水の供給は、その大半が本件崩壊斜面よりさらに上方の斜面から浸透した雨水によるものであり、本件崩壊斜面から浸透した雨水によるものは少ないと考えられること(これに反する前掲甲第一三号証及び証人生越忠の証言は採用しない。)からすると、右潜在的弱面の地下水圧の上昇に本件切取法面のモルタル吹付けが影響を与えたとは考え難い。
また、本件道路の拡幅に際し、道路法面を切り取つたことはそれ自体斜面の受動抵抗を減少させるものであり、本件山崩れ(第二崩壊)の発生を助長する原因となりうるものであることは明らかであるが、前掲乙第一八号証の三六ないし四六、成立に争いのない乙第三〇、三一号証、証人大矢暁及び同奥園誠之の各証言によれば、本件山崩れを力学的計算が可能となるように単純化し、すべり法面により右法面切取りを行つた場合と行わない場合とで斜面の力学的安定度を比較した結果、両者の間にはほとんど差がないことが認められること、斜面の安定性はきわめて多くの要素の複合からなつており、右のような単純な力学的計算だけから安定性を論ずることは、本来できないものであることからすると、右法面切取りが第二崩壊の発生にどの程度の役割を果たしたかは不明である(ほとんど無視しうる程度である可能性もある。)といわざるを得ない。
なお、前掲甲第一四号証及び第二二号証、証人川崎浩司の証言によれば、同証人は、第二崩壊は第一崩壊により斜面の受動抵抗が減少したことも原因となつているとしていることが認められるが、仮にこれが認められたとしても、第一崩壊の発生と本件切取法面の構造との間に因果関係が認められない以上、これが第二崩壊の発生と本件切取法面の構造との間に因果関係を認める根拠となりえないことは明らかである。
したがつて、第二崩壊についても、その発生と本件切取法面の構造との間に因果関係を認めることはできない。
8 同日午前七時頃発生した第三崩壊については、前記甲第一三、一四号証、乙第一八号証の三五、第四三号証、証人大矢暁の証言によれば、第二崩壊によつて不安定化した上方斜面が崩壊したものであることを認めることができ、前記のとおり、第二崩壊について本件切取法面の構造との間に因果関係を認めることができない以上、第三崩壊についても、同様に因果関係を認めることはできない。
四以上のとおりであつて、原告らの本訴請求は、本件山崩れの発生と本件切取法面の構造との間に因果関係を肯定することができないので、その余の争点について判断するまでもなく理由がないから、これをいずれも棄却することとし、訴訟費用の負担について、民事訴訟法八九条、九三条一項本文を適用して、主文のとおり判決する。
(白石悦穂 窪田正彦 山本恵三)
別紙(一)ないし(七)<省略>